"The Fabulous Philadelphians:From Ormandy to Muti" 1981年
2015-11-15


 オーマンディは自らディスカヴァー したムーティ にフィラデルフィア管弦楽団の音楽監督をバトン・タッチ、1979-80年シーズンを以って勇退し同楽団の桂冠指揮者(Conductor Laureate)になった後も亡くなる前年の1984年まで同楽団に客演しました。

 しかし、オーケストラ音楽監督交代劇?に於いて音楽監督が円満に勇退、しかも任期中に後継候補者を見つけて、音楽監督自らが後継者として指名する・・・というのは実に稀なケースと言えるでしょう。

 オーマンディは1971年のヨーロッパ・ツアーでムーティを「ディスカヴァー」し1972年にフィラデルフィア管弦楽団に初登場させ、1976年に主席客演指揮者(Guest Principal Guest Conductor)に指名、1979年に楽団から音楽監督の指名を受け、1980-81年シーズンから就任・・・という、音楽監督就任までに実に慎重な「試用期間」を置いています。

 オーマンディは1960年代後半くらいから自身の後継者(フィラデルフィア管弦楽団の音楽監督)を探していたと思います。候補者として、ジェイムズ・レヴァイン(メトロポリタン歌劇場の音楽監督が忙しすぎて断念)、小澤 征爾、ウォルフガンク・サヴァリッシュ・・・等々、あらゆる機会に何らかの働きかけをしていたようですね。

 アメリカのオーケストラの音楽監督は重責であり、ムーティも自伝の中で「・・・この役職の仕事はまるでピラミッドの頂点を作り上げるようで、様々な決断を下さなければならないし、絶対的な責任を負う立場であり、一度マネージメントと検討したことはオーケストラの命を左右するほどのものだった。プログラム、町との関係、演奏旅行、レコード録音と何から何まで決めなければならなかった。・・・」と記しています。

 音楽監督交代劇?は、楽団からの「解雇」(集客力・楽団理事会やオーケストラ楽団員との関係・・・等々)、「喧嘩別れ(音楽監督の方から三行半を突きつける)」「任期中に死去」・・・いずれも、そうなると楽団側は後任の音楽監督探しに奔走するわけですし、最近は音楽監督が空席であるオーケストラも珍しくありません。何故なら、音楽監督は重責であり、そんな重責を担いたくない・・・という指揮者の方が多数・・・なのかもしれません。

 ベルリン・フィルの「終身指揮者」を自ら辞任したカラヤンの場合はこれまた特殊な事例(「終身指揮者」という契約も他に例がないでしょうが・・・)と言えるでしょうが、カラヤン時代のベルリン・フィルでは「音楽監督」的な仕事は楽団のインテンダント(「総支配人」「事務局長」)が殆どしていたようで、そういう意味でカラヤンはベルリン・フィルの「終身指揮者」ではあっても事実上「音楽監督」ではなかったとも言えるようです。まあ、ベルリン以外のポストも多数得て、様々なプロジェクトを立ち上げていたカラヤンですから、オケの「音楽監督」的な仕事は物理的に出来なかったでしょうし、本人もベルリンに「縛られる」つもりはなかったようです。詳しくは 中川右介著「カラヤン帝国興亡史」(幻冬舎新書 2008年3月)をどうぞ。同著者の「カラヤンとフルトウェングラー」(幻冬舎新書 2007年1月)も興味深いですな。


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